昭和五十六年三月二十八日 朝の御理解
御理解第十二節 「神に会おうと思えば、庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神」
神様に会おうと思えば、いと簡単。庭の口を外へ出てみたら、そこには神様のお姿である。言うならば天地を指しておられるのです。
祈念詞に神様との出会いということを、「神縁まことに不思議にして」というふうに言っておられますね。だからここまではまあ神に会おうと思えばという、金光教で言う、まあ金光教では対象とする、拝ませて頂いておる神様は、言うなら天地であり、天地の芯である。だからその芯に、私共の芯が通うということ。その神様を親とも慕いてというところがありますね祈念詞に。慕い、お慕い申し上げるというその心。それには天地の芯が分からなければ出来ん。天地の芯とは天地の心であり、真であり、その天地の芯が分かる時に初めて、天地の大恩、言わば親が子供を思う。その心情を持って私共に接して下さるということ。
ですから、私は教祖様の御教えというのは、どこまでもおかげが頂けれる。言うならば、お徳が受けられる。そういう頂き方をしなければならん。ここでは、金光教で言う一つの神観とでも申しましょうか。「空が神であり下が神だ」と言う、分からせるというだけではなくて、その神様と通う手立て、言わば御神縁を頂いたということが、初めて本当の神との出会いである。」
だから出会うただけではいけない。言うならその出会いの中からいよいよ天地の真を悟り、天地の道理を分からしてもらい、道理に添う生き方が生まれてくる。そこからその天地との交流というか、通うことが出来るようになってくるのですから、初めておかげを受けるということになる。
だから、おかげを受ける、お徳を受けられるという所を焦点にして、教祖の御教えは頂かんならんと思うです。ただ理屈を言うて聞かせてある。こんなもんだと分からせる。その分からせるだけではなくて、それがおかげにお徳につながるものでなからなければならんと言うふうに思います。
それにはやはり天地の生き生きとした働きを、私共の生き生きとした心で受け止めなければならない。心から湧いてくるいわゆる真に有難しという心は、もうすぐに霊験(みか
げ)のはじめと、もうすでに神様と交流する。真に有難いというね。
昨日、ある方のことをお願いさしてもらいよった。熱心に信心も出来ます。もう長年の信心を頂いておられる。丁度何か八ミリと言うですかね、あの映写機でこう周囲を暗くして映し、映そうとしたところが、その何ていうですか、スクリーンと言うですか、そこに映写されるところのスクリーンが幕が張ってある。その幕がね、もうこうまあ言うならしだごだというか、あれはシャンとすれば映像もはっきり映るだろうのにというお知らせを頂いた。
私は、天地との出会い、そして天地との交流というところまで行かなければ、おかげもお徳も受けられんと思うです。何十年信心しとりますというだけでは、だから本当の交流にはならない。そりゃあ影が映るかも知れませんけれども、もうしわくちゃの中に映る映像であって、その映像が崩れてしまう。成程「世界中の氏子におかげはやってある。受け物が悪いとおかげが洩る」とおっしゃるのは、こういうことだなあと思うた。
果たしてお互いの心の中に、こうやって信心をさせて頂いておるが、果たしてシャンとしておるかと。映して下さる映像がはっきりと映っておるかどうかということを思う時に、言うならばしわだらけであったり、またはこうちょっと引っ張れば、ちょっと引っ張ればシャンとなるのに、ぐずぐずしておるようなことがなかろうか。これでは本当のおかげにならない。
天地との本当の交流、そこから生み出されるおかげというのは、いわゆる生き生きとした心、それもただ生き生きとしたという心がです。何か自分の思うようになった時、心が真から、心から喜べる。それこそ笑うまいと思うても、笑いが自ずと、笑いが止まらんというふうに申します。
けれども、そういう時だけの言うならば生き生きとした心で、普通の時、または普通で言うならば難儀な時でも、それを生き生きとして合掌して受けて行こうという、成り行きを大切にとか尊ぶとか言うのはそういう心である。手だけは合掌して「有難い」と言いよるけれども、心は、「信心するのにどうして」といったようなものがあっては、シャンとしとるということは言えない。
昨日、私は研修の前に、「深山」という姓がありますね深山さんと。善導寺にも深山さんという呉服屋さんがありましょう。深山と言う。あの深山です。深山、その名前が、山という深山、山という字で頂いた。その山というのが、あの大きく頂いた。
皆さんどういうことですか。深山というのは深山(しんざん)というふうに読めますね。深山、深い山、こりゃあ普通のこう、人の姓か何かで頂いたけれども、その名前とも思われる所が大きく頂いた、山という字を。深山、山と頂いた。
だから、皆に、「あなた達がもしそういう御心眼を頂いたら、どう思いどう受け取るか」と言うてまあ尋ねてみた。皆がやっぱ異口同音に、山という字は合楽では修行と言われるからというふうに答えておりましたね。
私はそのことを頂いた時に、私の言うなら直感はどういうふうに頂いたかと言うと、「
一生が修行じゃ」と仰せられることだと思うた。[坂を越え 山を越えても 峠かな]と。私共がいつ楽になるだろうか、楽になるだろうかというのは、自分の心が楽にならなければ楽になれませんのです。どんなに金が一杯あっても、立派な家に住んでも、自分の心が楽にならなければ楽にはなれない。もう限りない心配である。言うなら限りない難儀である。
その限りない心配、限りない難儀を私共が、昨日の御理解じゃないけれども、ここに毎朝これだけ沢山な人がお参りがありますけれども、その沢山のお参りの人が一人一人、今日も合楽に信心の稽古に通わせて頂こうというような心で、言わば学校に行く子がランドセルを背負うて勉強に行くようにね。言うなら、ここには信心の稽古にくる所としての在り方になったら、合楽の御比礼がまた一段と変わるだろうというふうに、昨日申しましたね。
皆さん一人一人が稽古に通うてくるんだと。あれを頼まねばならん。これを願わんならんから、このことをお伺いせねばならんからということもあっていいでしょうけれども、そのことを通して神様はどういう稽古をさせて下さるだろうかという所に観点を置いての生き方。
皆さん体験があるでしょうが。例えば私共の小学校の時に、年に何回かこの耳納山に登りました。そりゃあもう頂上までというのは大変きついです。そしてもうその峠というものがね、もうこの山が峠のように見えるけれども、越えてみるとまた向こうに行くと峠があるんですよ。はあいよいよあそこが、いよいよあそこが峠だなあと、見えよりますからね、でも登ってみるとまあいっちょ向こうに峠があるんですよ。
私は今言う、[坂を越え 山を越えても 峠かな]というのはそういうことではないかと思うんです。私共の人生というものは、そういうところをまあ仏教的に言うと、「この世は苦の世であるぞ、苦の世界であるぞ」と説いたんでしょうね。それを教祖の神様は「一生が修行じゃ」と仰せられるんです。苦労とはおっしゃっておられない。
ですから修行というものが、なら、信心さしてもらうなら、自分が求めてでも修行するように、その修行がまた、はあこの山一つ越えたらどういう心の状態が開けてくるじゃろうか。どういうまたおかげが広く大きなものになってくるだろうか。これが楽しみなんだ。ただ心を開いて行くだけじゃなくて、開いて行ったら開いて行っただけ、おかげの方も大きく伴うてくる。やっぱ人間ですから、そのかげが伴うてくることが楽しみになるということになるのです。心が開けただけじゃない。
金光教でね、心が豊かになると必ず物にも金にも不自由せんで済むような豊かさが出来てくるです。これは付き物です。ですから本気で信心の稽古をさせてもらうという、そのことは一生が修行だと。一生だと。やれやれと思うたらまた向こうにまあ一つ山があったというようにがっかりせずに、むしろそこに生き生きとした心を頂かせてもろうて、この山越えたらまた次の山を目指させてもらうような、そういうような心を私は生き生きとした心でなからなければ、シャンとした心にならなければ出来ることではない。
シャンとさえすりゃあ、もう目が覚める。シャンとすりゃあ動くことが出来る。シャンとせんからグズグズして床の中から出られない。やらねばならないことでもグズグズしておるからやろうごつなかごつなってくる。シャンとしとりゃあ出来る。そして、出来た後は、はあよかったという心に喜びが頂けるはずである。
結局シャンとせなければ映像は映らない。映っても崩れる。私はそのことを頂いてですね。確かに信心にはいつもシャンとする。「日に日に新た」と言われる。生き生きとした信心の稽古に目覚めさせてもらって、それこそ御神縁を頂いたということはこんな不思議なことはない。それこそ「神縁まことに不思議にして」である。
だからその不思議な縁を頂いておる。しかも合楽にご縁を頂いておるのであるから、合楽世界に住まわずしてどうするか。合楽にご縁を頂いているから、合楽世界に住まわせて頂ける信心の徳を受けなければならんという稽古に目覚めさせてもろうて、いわゆるシャンとした心で、その稽古に取り組まなければならんということでございます。
どうぞ。